大名庭園・栗林荘は
文化創造
発信のスポット

栗林公園は、江戸時代、栗林荘と呼ばれた藩主の別荘、お殿様がお客様をもてなす”おもてなし庭園”でありました。と同時に、詩作や茶の湯、芸能の上演が執り行われたり、薬として重宝されたお茶や朝鮮人参などの栽培が試みられたりと、藩主が文化や芸術を生み育て、発信する場でもありました。
江戸幕末の動乱、明治維新を経て、藩から県へ移る中、大名庭園・栗林荘は、高松松平家の手を離れ、園内の藩主の別宅・桧御殿も失われました。その後、旧藩主の別宅・桧御殿跡地に建設されたのが「香川県博物館」、現在の「栗林公園 商工奨励館」です。

香川県のものづくりの原点

「讃芸」と記された讃岐は「芸どころ」、古くからアートを讃えてきた土地柄です。明治時代、第6代香川県知事に着任した徳久恒範は、香川県民の手先の器用さを見出し、香川の経済振興の要として「工芸」を掲げ、産業振興の発信拠点として「香川県博物館」(現・商工奨励館)を建立しました。館内には、様々な県産品や美術品などが陳列され、また旧藩時代の図書数千巻が所蔵される図書室も併設されていました。
大正時代には「香川県商品陳列所」、昭和に入ると「香川県商工奨励館」に改称され、産業としての「工芸」、文化としての「芸術」の集約拠点として、その役割を担ってきました。まさに、商工奨励館は、明治、大正、昭和、平成、令和と時代をつなぎながら、『アート県・香川』の足跡を見守り続けているのです。

アート県・香川の足跡を見守り続ける空間

香川県には世界的に有名な建築家やアーティストが残した作品が数多くあります。そのきっかけは「デザイン・ガバナー」と称された元香川県知事・金子正則氏。民主主義の象徴として香川県庁舎の設計を、モダニズム建築家・丹下健三氏に依頼しました。また、金子元知事は、棟方志功やイサム・ノグチから賛辞された画家・和田邦坊氏を商工奨励館勤務に招聘します。和田氏のデザインは、香川県の物産や民芸品のデザインやパッケージに数多く取り入れられ、香川県のものづくりに寄与しました。また、商工奨励館の隣には「讃岐民芸館」が設けられ、丹下氏とともに香川県庁舎建築に携わった山本忠司氏が設計、初代館長には和田氏が就任し、世界的家具デザイナー、ジョージ・ナカシマの家具が展示されました。こうして香川県のものづくりはエポックメイキングな時代を迎えます。
平成の大改修では、商工奨励館の外観はもとより内観についても、かつての姿をとどめている箇所は、できるだけその保存に努めてまいりました。

商工奨励館
ゆかりの芸術家

香東川の氾濫をなくし、栗林公園の礎を築いた「西嶋八兵衛」

西嶋八兵衛

 商工奨励館中庭に保存される「大禹謨」は、江戸時代、西嶋八兵衛が香東川の改修工事の無事を祈り、中国の治水の大聖人「禹」にあやかって、書いたものと言われています。八兵衛が、香東川の東の流れの跡地に栗林公園の原型を造ったと思われます。

 

包装紙のデザインは「猪熊弦一郎」

猪熊弦一郎

 国際的洋画家・猪熊弦一郎は、明治35年、栗林公園北門近くに誕生。猪熊画伯は三越の包装紙「華ひらく」を手がけたことで有名ですが、商工奨励館でも猪熊画伯がデザインした包装紙が使用されていました。現在は、かがわ物産館「栗林庵」で使用されています。

 

イサム・ノグチも絶賛した「和田国坊」

和田邦坊

 商工奨励館に隣接する讃岐民芸館の初代館長として招かれた和田邦坊は、デザイナーとして香川のものづくりに新たな風を起こしました。かつて邦坊の絵を見たイサム・ノグチは「邦坊さんの絵、それは日本の神様が遊んでいる形です」と賞讃したと言います。

 

讃岐の家具をこよなく愛した「ジョージ・ナカシマ」

ジョージ・ナカシマ

 アメリカですでに有名だった家具デザイナー ジョージ・ナカシマは、昭和30年代~、デザイン近代化を図る「讃岐民具連」の活動に参加するため、たびたび来高していました。現在、ジョージ・ナカシマのテーブルや椅子は本館2階で、一般の来館者の方にご利用いただけます。 

 

※上記の文章・写真について、無断転載を禁止いたします。

TOP